初めてのライブ教えてください Vol.3 口笛太郎さん
SPECIAL[2015.12.24]
ライブで出会う「気になる人」に、ライブの話をアレコレ聞く企画、第3回は音楽業界人でありながら口笛奏者としても活動されている口笛太郎さんをお迎えしました。「生演奏してくれるのを酒飲みながら見れるって結構贅沢な時間だと思う」と語る太郎さん、ディープな音楽歴と音楽業界こぼれ話は興味津々でロングインタビューになりました!
●音楽業界人であると共に口笛奏者である口笛太郎さんですが、初めてのライブは何だったんですか?
太郎:小学校4年やったか5年やったか、キャンディーズの高槻市民会館。まあ、その頃ってあんまり電車乗ってどっか行けたりしないんでね、僕は高槻市(大阪府)の住民やったんで、地元にコンサートに来てくれるって凄い大きい事なんですよね。当時はキャンディーズは凄い人気で、僕は蘭ちゃんが好きやったんですけど。あ、蘭ちゃんは今の水谷豊さんの奥さんですよね。伊藤蘭さん。
●めっちゃ昭和ですね。
太郎:そう(笑)で、キャンディーズが高槻市民会館に来る、これは行くっきゃないって事で、地元のレコード屋さんに頼んでプレミアムチケットを取ってもらいましたよ。そのレコード屋さんは、もう無くなってますけどね。
●当時ってチケットの入手手段はどんな感じだったんですか? 
太郎:ああ、今みたいにコンビニとか無かったから、プレイガイドに徹夜で並んで取ったりしてたんですよ。俺は中学生の時とかは梅田のプレイガイドに並んでましたよ。Journeyのコンサートとか、TOTOとか。でもその時は地元なんで、高槻の楽器屋さんとかレコード屋さんとかでも売ってて。昔はシステムも無かったから、実券を配券してたんですよね、色んなトコに。あのレコ屋やったら何枚か入るんやろな、とレコード屋のおっさんに相談したら「ウチ何枚か入るぞ」って(笑)。
●おっちゃんナイス(笑)。ちなみにいま太郎さんお幾つですか。
太郎:僕、昭和41年生まれ。1966年生ですね。ドーナツ盤は当時500円か600円かな。
●ああ、シングルって考えたら今より安いんですね。でも物価が違うかな。その、小学生がコンサートに行くって、結構な音楽好きですね。
太郎:コンサート行くのはそれが初めてでしたね。レコードはね、結構買ってましたけど。だから凄くドキドキしてた。コンサートって子供が行っちゃいけない所じゃないかなって。親衛隊も怖そうだったし(笑)。それは兄貴と行きましたけど。兄貴は3つ上で当時中学生やったから。テレビに出てる人を間近に…って遠かったけど、生で見れるなんてそんな事は初めてでしたからね。あのテレビで見てた人がココに!って凄いドキドキしました。
●実際そのコンサートは素敵でした?
太郎:それがね、凄い素敵やったけど、結局は、その…蘭ちゃんも見てたんやけど、何を一番見たかって言うと、バックバンドばっかり見てたんですよ。
●えー。
太郎:何故か。あの時のバックバンドがめっちゃくちゃ上手くて。これがね、結局、自分が40年以上音楽好きになるきっかけやった。一番最初に見たコンサートでやられた、正直。キャンディーズも物凄く歌が上手かったんですよね。あれはアメリカのシュープリームスに対抗して作っただけあって凄く歌が上手かったんだけど、バックバンドも凄く上手くて、着替えの時間とかでね、バックバンドが2分間ギターソロやったりとか、繋ぎで何か演ってたりするのが凄くかっこよくて。…今、口笛太郎で自分のアルバム出してるけど、自分がスターになりたいとかって思った事も無いし、スタジオミュージシャンかバックバンドみたいな裏方になりたいって、ずーっと憧れてた。
●そんなに強烈だったんですね。
太郎:結局はレコード会社に入って制作をやるんですけど、自分ってよりかは、誰かタレントの、裏方の一番手か二番手っていう。
●おー。色々コントロール出来るあたり(笑)。
太郎:そうそう(笑)。そういう存在になりたいってずっと思ってたのは、ファーストコンサートのキャンディーズのバックバンドがきっかけでしたね。
●凄いですね。小学校5年生っていうと、まだ10歳?
太郎:11歳の時かな。
●そこで目標決まっちゃった。
太郎:決まった。うん。そっからもう、凄いギター弾き始めたの覚えてますね。当時僕もちょうどギター弾き始めたくらいで。その後、キャンディーズのバックバンドは『スペクトラム』っていうバンドとしてデビューするんですよ。これはアミューズがサザンオールスターズと共に売り出した凄いバンドで。ホーンセクションが3人いて、アース・ウインド・アンド・ファイアーみたいな、ブラスロックですよ。むちゃくちゃかっこよくて、トランペットくるくる回しながら踊って演奏するような。そういうバンド。
●歌もありで?
太郎:歌ありで。それは新田一郎さんっていって、その後音楽プロデューサーになって沢田研二さんとか嘉門達夫さんのプロデュースをする人なんだけど。元々皆スタジオミュージシャン上がりの人ばっかりで。
●ああ、元々皆上手いんですね。
太郎:そう、皆むちゃくちゃ上手い。で、確か高槻市民会館の時にギターが誰だったかは覚えてないんだけど、スペクトラムとしてそのバンドがデビューした時のギターが、これ凄い縁なんだけど、西慎嗣さんって言って、高槻出身のギタリストだったんですよ。当時10代で、むちゃくちゃ上手かった。それで、確か俺が中1くらいでキャンディーズが解散したのかな。自分がタレントさんと接せるような仕事になりたいって思ったのはそれからですね。「西さんはスーちゃんと付き合ってた」みたいな噂を聞くと「スゲー!ギター上手いとタレントと付き合えるのか!」とかね。アホでしょ。
●でも、自分で弾き始めたりすると、勿論上達もするから、そこで自分が表舞台に出る事は考えなかったんですか。
太郎:ない、考えない。勿論生演奏のお店でセッションで弾いたりとか、そういうのはありましたけど、そういう気は無かったですよ。どうしてなのかなって思うと、やっぱりあの時のキャンディーズの後ろで演奏していた…大人の人達がかっこよかったから。
●はい。街のライブハウスに行き始めたのはどれくらいでした。高槻の地理がちょっとわからなくて。
太郎:高槻って言うと大阪の北の方で関西メタルのメッカ、関西メタルの中心地だったんですよ。「アクション」とか結構まわりのヤツが聞いてて、楽器屋さん行って俺がギター試奏してると横にローリーさんが居た!みたいな。
●わー。
太郎:アクションのボーカルの高橋ミチロウさんが以前にやっていたバンドは山水館っていう名前で、それも北摂の宿の名前で。とにかく回りはハードロックばっかり。後は44マグナムとか、LAZYでしょ、マリノとかノベラとか。高槻って、淀川を渡ると枚方市っていうのがあるんだけど、
●はい、ヒラパー?
太郎:そうそう、ヒラパーの(笑)。高槻からは電車は無いけどバスで20分くらいで行けんねんけど、枚方市駅の前に『ブロウダウン』っていうライブハウスがあって、ここがまたメッカなの。関西メタルの。汚ない小さい店やったけど、よく地元のハードロックバンドとか見に行きましたね。EARTHSHAKERとかも見たんじゃないかな。『ブロウダウン』…今はもう無いんかな。あとは梅田のバナナホール(現「AKASO」)とか、今は無くなってるけど『バーボンハウス』とか。大学になってからは京都、『拾得』とか『礫礫』とか行きましたね。僕はもう高1くらいまではハードロックとか日本のメタルを聴いてたから。
●凄いですね。じゃあライブハウスは中学生から?
太郎:中2、中3くらいからやね。
●今だったらそうでも無いかも知れないけど、昔で言ったら結構な不良ですよね(笑)。
太郎:不良かもですよね(笑)。夜の10時、11時くらいまでおったから、昔は緩かったですよね。
●そうですね。今は風営法も厳しいから、夜遅くは身分証明書必要ですけど。
太郎:そうですよね、年齢確認とか。それとね、当時って横浜銀蠅の影響からか、凄い不良全盛の時代だったので、高校生とか中学生が皆タバコ吸ってるんですよ。
●わははは(笑)。
太郎:僕は吸わなかったですけど(笑)。要するにいきがりたい人間が、夜遊びとタバコで夜な夜な。そんな感じで一種の不良がいっぱいたまってましたよね。それがまぶしいみたいな。
●そこに行けば仲間がいるみたいな。
太郎:怖い先輩がいたりとか。「お前次はあれ聴けや」って言われて色々教えてもらって。レイジーが解散しよる、とか、次はLOUDNESSっていうバンドになるんや、とか。お前聴かんとタッカン(高崎晃)に怒られるぞ、とか。全然知り合いちゃうのにって思ったり(笑)。
●ライブハウスって色んな距離が近くなりますからね。自分でバンド組んだりとかもしたんですか?
太郎:高1くらいかな。クラスの子らで集まって、でもドラムがおらへんとかね。ギターばっかりやったんですよ。
●ありがちな(笑)。時代的に(笑)。
太郎:そうそう(笑)。だから楽器が揃ってきたのは高校くらい。中学の時は周りもギターばっかり。全員速弾きみたいな。
●良いですね、ギター小僧(笑)。
太郎:そう。今のバンドを見てるとギターソロがあんまり無いですよね。
●そうですね。技巧的でも違う方向に行ってますね。
太郎:僕らの時なんか必ずギターソロがマスト!ボーカリストとギタリストが2トップみたいな。今ってボーカルとバックバンドみたいな立ち位置が多いじゃないですか。当時はボーカルとギターが2トップで。
●そうですね。で、その後、最初の就職は音楽関係じゃなかったって前に伺いましたが。
太郎:そう、証券会社。レコード会社を片っ端から受けたんだけど、全部落ちて。それで、「夢じゃなきゃ金だ」って証券会社に。当時はバブルの絶頂やったから水曜日の銀座で夜中1時にタクシー2時間待ちみたいな。そういう時代でした。2年ちょっと働いて、バブルが潰れかけた時に、ワーナーミュージックが大阪限定で大阪営業所の人を募集してたんですね。当時僕は東京の兜町で働いてたんですけど、たまたま大阪でワーナー募集してるよっていうのを聞きつけて大阪まで里帰りして受けたんですよ。それは200~300人受けて2人しか受からないみたいな。
●凄いですね。狭き門!
太郎:それで音楽業界に入って。大阪のCDショップへ営業とかしてましたね。
●凄いですね。ちゃんと、諦めなかったから音楽の世界に戻ってこれた。
太郎:まあそうですね。ずっと音楽好きでしたよ。大学も軽音楽部で。もうロックはあんまりやらなくなりましたけど、ジャズとかやってて。ビッグバンドもやってたし。
●大学はどちらなんですか?
太郎:関西大学ですけど。周りはブルースとかジャズとかファンク聴いてる人が多かったね。僕もそこでジャズやってたから譜面も凄い勉強したし。それが今も役立ってますよね。大学の軽音楽の先輩に古い音楽を…R&Bとかルーツを叩き込まれた。これ聴けあれ聴け、これ聴かん奴は○ねとかもう、凄い体育会系でしたけど、それがもうすっごい為になってるっていうか肥やしになってますね。だから証券会社時代もタワーレコードとかちょこちょこ仕事抜けて買いに行ったりしてたし。
●ちなみに業界人になってからのライブの本数とか、どうだったんですか?変化もありました?
太郎:むちゃくちゃ増えた。それは、当時営業をやってると、大阪管轄でやる自社アーティストのコンサートに即売に行かなきゃいけない、CD売りに行かなきゃいけないから。あれはお店が売ってくれるんですけど、それを手伝いに行くんですね。だから、毎月会議で○○のコンサート誰が行きますか?って割り振りがあって、割り振り以外でもどうしても行きたかったら俺も手伝いに行きますとか言ってすごい数のライブ見てた。ワーナーと言えば洋楽が多いじゃないですか?来日のコンサートが大阪でも月に4、5本はあって行ってたかな。
●おー。凄い。
太郎:邦楽では、さだまさしさんとか、スターダストレビューとか森高千里さんとかね。山下達郎さんもかな、中々ライブやらなかったけど。週に1、2本は行ってましたね。レッチリとか『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』の頃やったかね。でもあの頃はまだ全然ハコ小さかったよ。キャパ600くらいやったかな。クラブ系のアーティストでも即売で見に行ってたし。凄いたくさん見てましたね。むしろ、セールスから外れて、東京本社に来てからの方がライブの本数は減りましたね。
●大阪では営業されてて、東京に来てからは。
太郎:東京本社では販売促進とか営業企画とか、「本社」的な仕事になっていくから、それはもうライブとか行かなくなる。
●個人的にはライブ行ってたんですか?
太郎:行ってましたよ。ワーナーは自社のアーティストのコンサートはチケット代補助制度ってのがあったね。他社のアーティストも好きなものは行ったし。それで制作になると、自分の担当アーティストばっかり立ち会うじゃないですか?だから段々ライブで聴く幅が狭くなっていくのかな。
●色んな部署を経て、最終的には制作に?
太郎:うん。制作ですね。それでメレンゲとか、森広隆君とか。変わったところで二胡(にこ・中国の弦楽器)を弾くウェイウェイ・ウーさんとか。色々。その後もう一回セールスに出て、それでまた制作に戻ってくるんですけどね。本当はそんなに異動なんて無いものなんだけど、僕は結構部署異動しました。洋楽もやったし。再結成以降のイーグルスのボックスセット作ったり。ロッド・スチュワートの担当は色々神経質な仕事でしたね。マイケル・ブーブレっていう全世界で人気なのに日本でだけあんまり人気が無いアーティストを担当した時は本国からのプレッシャーもあったし。とにかく洋楽のディレクターもやったし、邦楽のディレクターもやったし、コンピレーション・アルバムとかも作りましたね。
●何というか、結構凄い人なんだなと思って(笑)。メレンゲの担当者として会ったのが最初でしたよね。
太郎:ははは(笑)。メレンゲの時は、当時僕は洋楽に居て邦楽に異動になったの。リップスライムとかBONNIE PINKとか居るレーベルのトップの人に可愛がられていて、「来い」と。俺は邦楽やったこと無いけど何やるの?って聞くと、最初は「このレーベルの中にインストの部門を作りたい」って言われてたのね。当時は癒し系の音楽が流行ってたから。だから(二胡奏者の)ウェイウェイ・ウーさんとかやってた仕事をこのレーベルでやってくれって言われた。それで邦楽に異動したんだけど、一向にインストのレーベルが立ち上がらず、俺暇なんですけどって言ったら、だったらこれやってとあてがわれたのがメレンゲだったの(笑)。で、結局インストのレーベルは立ち上がらなかったんだけどね。
●わはは(笑)。
太郎:でもメレンゲの周りにはすでに若尾さん(当初のメレンゲの制作担当。現ドリーミュージック制作部長)や樋口さん(Loft)や朝倉さんがいて、もう体制出来上がってるなと(笑)。俺がわざわざ入ってもみんなやりにくいんじゃないかなと思って、でも認めてもらうために頑張んなきゃと。当時の僕は日本のロックシーンなんか全然分からなかったから、周りの皆から「大丈夫?」って言われたけど、「俺ロックやりに行ったんちゃうから」って返してたし、一番不安だったのは自分自身だったけど、結局ロックやってた。それも大学の軽音楽部で古いロックとか譜面とか教えてもらったりしたんで、演奏の仕方とか、バンドは斯くあるべしっていうのがあったんで、そんなんでやり始めて、段々制作勉強させてもらったっていう。そんなんでしたね。メレンゲの時は流れでレコーディング・ディレクターどころかマネージャーまでやったから。

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